一本に繋がった眉、彩り鮮やかな花飾りをつけた三つ編みの髪型、そしてメキシコの民族衣装。インパクトのある風貌で知られるフリーダ・カーロ(1907-1954年)は、自身の病や障害、夫との波乱に満ちた関係、そして自国の政治的混乱に翻弄された激動の人生を数々の鮮烈な絵画作品に描き表し、唯一無二の世界観を築き上げた画家。
死後60年以上経った今でも多くのファンを魅了し、アートの垣根を越えてファッションやデザインなど多方面にインスピレーションを与え続けている。
彼女の生家で終の棲家となった家もまた彼女の人生を丸ごと体現するような強烈な印象を放つ空間だ。
メキシコシティ南部に位置するコヨアカン地区に立つこの一軒家は外壁が目の覚めるようなコバルトブルーであることから、「カサ・アズール=青い家」と呼ばれている。
フリーダ・カーロの研究で知られる美術史家のヘイデン・エレーラはこう語っている。「この家に入ると、随所にフリーダの存在が感じられます。ここには彼女が収集したあまたの物があるからです。人は自分の身の周りに置く物の中に少なからず自分を投影するものでしょう」[注]。
現在は博物館であるこの青い家には、フリーダや同輩の画家たちの作品のみならず、メキシコの民芸品、植民地時代以前の古代工芸品、写真や遺品などが当時のままの状態で飾られており、メキシコの歴史とフリーダの人生が今なお静かに脈打つ豊かな空間だ。
では早速、詳しく見ていこう。
フリーダの父、ギリェルモが青い家を建てたのは1904年。その3年後にこの家で生を受けたフリーダだが、幼少期にポリオに罹患したことで障害を抱え、18歳の時にバス事故で脊髄を損傷するという大きな不運に見舞われた。長らく療養の場となるこの家で、フリーダは絵を描くことに目覚めていく。
歴史ある文化地区であるコヨアカンには、1920年代頃から芸術家、知識人、革命家たちが集まり、居を構えるようになった。のちにフリーダと結婚する著名な壁画家のディエゴ・リベラもその一人。20歳以上も年上の画家との出会いが交際へと発展したのは、フリーダが彼を青い家に招き、自身が描いた作品を見てもらうことがきっかけだった。1929年に結婚するが、その後離婚、そして復縁をするという愛憎に満ちた関係性がこの家を舞台に展開していく。
建築当初、この家はフランス風の装飾を施した外観であった。1940年代にフリーダとの復縁を機にこの家に戻ったディエゴが家の各所に手を加え、現在の姿に至っている。
最初は中庭の三方が囲まれている構造だったが、翼棟を増築したことにより四方が囲まれる形となった。ご覧の通り、新しい壁面は火山石で作られ、貝殻や陶器の壺、鏡などが埋め込まれている。中庭には階段つきのピラミッド式構造物、噴水や水場が置かれ、神殿のような独特な空間が徐々に作られていった。
中庭を彩る樹々や花々は今も手入れが行き届いている。それはこの庭の植物たちがフリーダの画業や夫妻の思想を物語る上で極めて重要な要素だからでもある。
フリーダと言えば、いつも髪に飾っていた生花。よく知られた写真に映るマゼンタ色のブーゲンビリアはこの庭に咲いていたもの。その株は今や大きく育ち、蔦はうねるように伸びているそう。とりわけ自画像を多く描いたフリーダだが、それらに描かれている多種多様な花々もまた彼女が日々この庭で愛でていたものなのだ。
花や果実や種子は、受胎や生殖といった生の根源的な側面を表すものだが、交通事故の後遺症で流産を繰り返した彼女にとってそれらは苦しみと癒しを同時に象徴するものであり、それゆえに描く必然があったに違いない。中庭の曲がりくねった小径は車椅子で回れるように整えられ、彼女はここで多くの時間を過ごしたと言われている。
また、ともに共産主義者であったフリーダとディエゴは、ヨーロッパ文化による植民地化への強い抵抗感を示し、生涯を通してメキシコ土着の芸術にインスピレーションを求めた。そのため、当初この家に見られた植民地時代の建築様式や、バラやヤシといった外来の植物は極力取り除かれ、青い家の随所にメキシコらしさが散りばめられるようになった。
カンナユリ、ユッカ、サボテンといったメキシコ原産の種々の植物の間に、ディエゴは植民地時代以前の石像などを点在させている。
室内の装飾もまたメキシコ文化への傾倒を強く感じさせる。キッチンと食堂はともに鮮やかな黄色いタイル床。コントラストを生む青いカウンターや壁は、伝統的なメキシコの建築様式を踏襲したもの。所狭しと並べられた陶器や皿、ガラス類などはメテペック、オアハカ、トラケパケなどの先住民族に由来する手工芸品。また、壁に掲げられた張り子人形は、復活祭の時期に火薬を詰めて爆発させるもので、やはりメキシコの伝統と風俗を強く感じさせる。
2階に上がると、フリーダの寝室とアトリエがあるが、ここには彼女が愛用した家具が当時のまま残されている。
机の上にはパレットと画材、自画像を描く際に使われた鏡、車椅子に座った状態で描くために低い位置にキャンバスを据えた大型のイーゼルなどが見られる。アトリエ部分はディエゴが増築した翼棟にあたるが、窓からは中庭の植物と青い壁がよく見える。
このほかにも、ベッドルームには損傷した背骨を固定するためのコルセットや、多くの時間を寝た状態で過ごした彼女が自分の姿を確認できるように天蓋につけた鏡などがあり、生活の中でのさまざまな不自由を克服するための工夫がうかがえる。
1954年、フリーダは青い家の2階の部屋で47歳の生涯を終えた。通夜はこの家で執り行われ、遺灰は今も寝室に安置されている。死の4年後、ディエゴはフリーダの人生と芸術への敬愛を込めてこの家を保存することを決め、財団を設立。1980年代のメキシコ美術の再評価、さらにはフェミニズム運動の高まりの中でフリーダの存在に光が当たることで、青い家はかつてないほどに注目を浴びるようになった。
黄色い床、緑の樹々、赤い花々、そして青い壁。迷いや妥協が微塵も感じられない原色が響き合う空間は、自らの人生を赤裸々に描き続けたフリーダの絵画世界そのものを表している。メキシコの空の下、青い家を吹き抜けるのは彼女の熱く美しい息吹にほかならない。
[注] A Tour of Frida Kahlo’s Blue House -La Casa Azul
https://www.youtube.com/watch?v=DaZjXZhg_OA より。
写真/All sources and images courtesy of Frida Kahlo & Diego Rivera Archives. Bank of Mexico, Fiduciary in the Diego Rivera and Frida Kahlo Museum Trust.
All photos by Bob Schalkwijk
https://www.museofridakahlo.org.mx/en/the-blue-house/
取材・文責/text by: 河野晴子/Haruko Kohno